「宝石のおわり」(行動学入門/三島由紀夫)感想

「行動学入門」じたいは二年くらい前に買っていたのだが、その中身は、ちょびっとずつ、それはもう数ヶ月に一作読むか読まないかくらいの、じつにマンボウ並みのペースで読み進めている。

 

ちなみにこれはこの本にかぎった話ではない。

ほんとうに気が向いたときに読むしかない。それしかない。そしてこれは本にかぎった話ではない。

 

本題である「宝石のおわり」、これは「行動学入門」に収録されている三島由紀夫の作品。

 

たった数ページの、短い、三島由紀夫さんの所見のようなもの。

その短い数ページにつづられた三島由紀夫さんの宝石に対する所見を強引に要約するのなら、つまり「ダイヤモンドは傷つかず永遠の純潔を保っているというのに人間の男女ときたらさぁ」とかいう内容になっている。あくまで強引に要約している。強引である。

(私が三島由紀夫さんに明るくはないことも合わせてご了承願いたい)

 

男女、とくに女性に対してぞんぶんに「おわる」ことを言及しているから、なんだか思わず笑ってしまった。

この場合の「おわる」イコール「処女喪失」である。まあふつうそうだよね。「純潔」って言ってるからね。笑うしかない。

 

しかし男性の純潔が性器に及ばないことへは触れられていないことへの疑問をもちつつも、私が驚いたのは「ダイヤモンドが処女を失ったとかは聞かないのに……」という柔軟すぎる発想である。

 

た、たしかに。

と、胸のうちに謎の同意を湧かせてしまった。

なるほどたしかに宝石が処女を失ったとかいうニュースは生まれてこのかた一度も耳にしたことがない。

だが宝石は発掘された時点で処女喪失になるんじゃないのかしら。これは私の思い込み違いだろうか。もしもそうだと仮定したとするならば、「人に発見されない=生まれてこなければそもそも永遠の純潔だよね」と考えてしかたない。

人に見つかったが最後なのである。

これは私の所見である。