芥川龍之介「羅生門」

好きな小説はと訊かれたら、私はいくつになっても「羅生門です」と答えるだろう。
好きな小説家はと訊かれたら、もちろん「芥川龍之介」だ。

 

 

私が芥川龍之介さんの小説に、というよりも、「小説」そのものにまともに向き合ったのは十六歳の国語の授業だった。

当時教科書に載っていた「羅生門」が、それまでの国語において異様な雰囲気をまといながら私の前に現れた。

 

その異様な雰囲気の正体って何だろう。

五年あるいは六年経ったあと、私は書店で「羅生門」を探した。

 

何度も読んでみて思い当たったことがいくつかある。

 

「ある日の暮方のことである。」から始まる小説のなかで、羅生門の下で雨止みを待つ下人の様子をひとしきり書いたあと、とつぜん「作者はさっき」と挟んでくる。


私が最初に引っかかったのはおそらくこの部分だったんじゃないかと思う。


時代は平安期なのに、いきなり作者が出てくるのだ。

しかも、sentimentalismeなんてフランス語を連ねながら。

 

これはいま読み返すたびに、おおっと驚いてしまうところだ。

だっていきなり作者が出てくるのだ。sentimentalismeがどう日本語に訳されるのかわからない時代だったのか知らないが、もう、そのままsentimentalismeと書きながら。

 

かつて日本にペリーが現れた時、彼が乗る黒船を目の当たりにした日本人もきっとこんな気持ちだったんだろうなあと察することができる。

鼻の高いよくわからない男にHelloなんて言われたら誰だって「なんだこいつ」って思うだろう。


そう、私は「羅生門」で急きょ出てきた「作者」に「なんだこいつ」と思ったのだ。

 

芥川さんには悪いんだけれど、読み返すたびに吹き出してしまう。非常に悪いんだけれど。けっして馬鹿にしているわけではなく。いい意味で。

 

ともかく文中でいきなり作者視点に切り替わる小説なんて出会ったことがなかったものだから、しかも横文字、フランス語を使ってくるなんて思いもしていなかったものだから、そして作者自身で先ほど読者に読ませた文章を訂正してくるのだから、私は一気に「羅生門」に魅了された。

驚きは魅了に繋がるのである。

 

そしてもうひとつ、私がこの小説を好きな理由。

それは文中の「この『すれば』は、いつまでたっても、結局『すれば』であった。」の部分だ。


これは下人が自分の将来をどうするか考えあぐねている様子を描いているのだけども、もしも盗っ人に成り下がったとしたら、どれだけ楽なんだろう、そんな「もしも」にいつまでも踏ん切りのつかない下人の気持ちを、それこそ作者目線で語っている。

 

自分の身が懸かっていようとも、何かきっかけがなければ踏ん切れない、そんな情けなさが垣間見れて好きなのだ。

人間、そんなもんだよね、と。

 

そして後半になるにつれて「すれば」にようやく踏み切った下人を介してまたもこの小説に魅了された。


なぜ踏み切ったのか。それは自分よりも下等であると見える老婆と出会ったから。

悪事を働こうとも「しかたない」理由と出会えたから、盗っ人に走る勇気が出た。
情けないんだけど、みっともないんだけど、でも生きる道筋を選べた、出しちゃいけない勇気を出した下人が、そしてそんな下人の変化のさまを終始描いた「羅生門」が、ああ、薄汚くて好きだなあと感じた。

 

そして、

「きっと、そうか」

この下人のたった六文字の台詞に、勇気を噛み締めた気迫のようなものを感じてしかたない。

 

あとは、ほどよい短さ。

読書嫌いだった私にもちょうど読みやすい長さだったのだ。
短編でありつつもひとりの男の変貌を描ききっているから、本当にすごい。
今ほど自分の褒め下手なところを悔しく思ったことはないが、とにかくすごいのだ。

 

「羅生門」よりは少し長いか、「トロッコ」も私が好きな芥川さんの小説である。

こちらは薄汚さなんてなくって、寂しさ、切なさ、少年期ならではの胸苦しさを感じて大好きだ。
中学校と高校で泣きじゃくりながら帰った思い出があるのだが、この「トロッコ」はまさしくその思い出が掘り起こされて、苦しい。

おとなって案外、冷たいんだ。本人たちはその冷たさを自覚しちゃいないんだけど。子どもはおとなと少しすれ違っただけで「置いていかれた」と勘違いしているだけなんだけれど。

 

まだまだ読み足りない小説。
これからも読んでいきます。