「ローマでアモーレ」感想

 ミッドナイト・イン・パリに引き続き、ウディ・アレン監督作品を観た。

なぜって、ウディ・アレン、面白すぎるんだもん。

 

 

パリとは打って変わってローマが舞台。

オムニバス形式というんだろうか。とにかく舞台こそローマだけれど、メインとなる主人公たちはそれぞれあまり接点がない。

(最後の最後に、ちょこっと会うくらい。)

この主人公たちが濃ゆいのなんの。

音楽業界から引退して以来死んだようになっていた舞台演出家、その姻戚となった葬儀屋、建築士の青年、その憧れの存在である建築界の巨匠、ローマの一般市民のサラリーマン、田舎から越してきた新婚夫婦。

これだけ書くならふつうかもしれない。

だがこの人々のキャラクター、性格、濃ゆいのだ。

とりわけ心を摑まされたのは葬儀屋のパパ。

息子の嫁がアメリカから両親を連れてきた(これがウディ・アレン扮する元舞台演出家である)ので、とりあえずシャワーを浴びるパパ。

元舞台演出家はぐうぜんシャワーを浴びるパパの美声を聴く。

とにかく美声なのだ。

で、演出家の血が騒ぎ、なんとしても娘の婿のパパであるこの葬儀屋を売り出したいのだが、シャワーがなければいまいち美声が発揮されないことが露見する。

(このくだりでちょっとこの人たちおかしいな、と思い始めた。)

そして元舞台演出家は考える。

歌劇場にシャワーを置けば完璧じゃん!

と。

 

そうして葬儀屋のパパは歌劇場の舞台でシャワーを浴びながら演劇をすることになる……。

 

もう、この一連の流れでこの映画がどんな映画なのか理解してしまった。

そう、おかしすぎる人たちが集まった映画なのである。

だがやみくもに面白おかしく描いているわけではない。ここは注意すべきことだ。

元舞台演出家にも、葬儀屋のパパにも、建築士たちにも、新婚夫婦にもサラリーマンにも、ただつかのまの非日常がやってきただけのことなのである。

元舞台演出家と葬儀屋のパパにはお互いが。建築士たちには魔性の小悪魔が。新婚夫婦には憧れのスターと謎の娼婦が。サラリーマンにはローマ中の人々が。

それぞれの主人公を襲ったのは〝他人〟という夢なのだ。

目を覚まして顔を突き合わせているだけの夢なのだ。

そして夢は過ぎ去り、いつもの日常が戻ってくることもこの映画では語っている。

ある運転手はこう言う。「人は満足することを知らない」。

上記の主人公たちは一人を除いてみんな満足してなかったのだ、現実に。そして夢でも「もっと先」を求めた。

満足しなかったから夢で終わったとも言える。つまり満足しなければ破滅に向かってしまう。人々の注目が他に移ったとたん、自ら滑稽な馬鹿を演じたサラリーマンがいい例だ。

そして現実に満足していた主人公とは、奇しくも常日頃から、夢なんてとうに見終わった死人だけを相手にしていたあの葬儀屋のパパである。

パパは、人ひとりが満足できる幸せのボーダーラインをきちんと知っていた。それは葬儀屋という職業柄なのかもしれない。歌劇場で引っ張りだこになることよりも、あたたかい家庭があればそれで「じゅうぶん」なのであると知っていたのだ。

そして満足していれば、破滅なんかしないことも。

 

ウディ・アレンの映画を見るのはこれで三作目だが、どの作品も、現実に不満をつのらせた主人公たちがとつぜん夢のようなひとときに浸り、やがて目を覚まして現実に帰還するまでを描いていることに気づいた。

そして人間の存在意義、価値観についても匂わせている。

何事にも「程の良さ」、分相応を知っておけ、と映画を通して言われている気がする。

でも、それじゃ夢がない!

人間はどうしても夢見がちだと思うのだ。

だからきっと、それも踏まえ、ウディ・アレンは、分相応の夢を見るか、もしくは努力をかさね夢を見れる自分になるか、どちらかしながら生きるしかなんじゃないかい、と言っているのだと思う。

諭されている気分だ。

いや、決して夢を見るなと言っているわけではない、ウディ・アレンは。

見るならそれ相応の自分になりなさい。これだけなのである。

 

おかしい。

映画はどれもコメディチックであるはずなのに、人生観を見せられたようだ。

おかしい。

すっかりウディ・アレンが好きになってしまった。

ちなみにこの「ローマでアモーレ」、好きなシーンは葬儀屋のパパに握手された元舞台演出家が、「仕事で手が汚れてる」と言われたとたん、呆然と握手した自分の手を見つめていたシーン。

葬儀屋である男の手を汚れている……そんな男と握手した自分の手には……と、元舞台演出家は私と同じことを思ったに違いない。